これまで作業してきた、版画家田中恭吉の青春時代の日記の翻刻、注釈を、調整作業を残してほぼ終えることができたので、報告しておきたい。
ブログ記事にするのは、これまで、自分の励みになるように、作業の進行について折にふれて注釈日誌として公開してきた経過から、そのまとめを記しておきたいと思うからである。
1 ほぼ、注釈作業を終えて
本ブログに「田中恭吉注釈日誌」というカテゴリーを新設して、注釈日誌として書いてきた記事等をまとめた。
自分で読み返してみると、さまざまな思いがある。
よくがんばってきたと思うとともに、同じ事は2度できないとも感じる。
もともと、和歌山県立近代美術館所蔵の田中恭吉日記の翻刻作業の言い出しっぺは、わたしであった。2016年ごろだと思う。
しかし、退職前の10年は、役職が2回まわってくるなど、たいへんないそがしさであった。
1911年日記担当の方は、2019年には翻刻を終えられていた。「ノート」担当の方も、追って翻刻を終えられた。
わたしは、1910年日記の担当であったが、進んでいなかった。
2020年3月に職を退いたが、疫禍と近親の看取りがつづき、身動きがとれない状況であった。
ブログ記事を確認すると、2021年10月に、少し手をつけていた1910年日記の翻刻に再度取り組んでいる。
2022年には完成した翻刻原稿を整理し、注釈をつけないといけないと感じた。
わたしは、研究者としてはたいしたことのない存在であるが、賞をひとつだけもらったことがあり、それは『一握の砂』の注釈に対して受けたものである。
注釈のたいへんさは経験的にわかっていたが、田中恭吉日記を一般の方に読んでもらうのには、注釈が必須であると思った。
2022年の5月に1910年日記の注釈を始めている。今年の夏には、全体がほぼ終わっているので、約2年間注釈作業を続けていたことになる。もちろん、それだけをしていたわけではないが。
「田中恭吉注釈日誌」のカテゴリーの記事を読んでいただけば、わたしがどんなことに苦労していたかを理解していただけるだろう。心おぼえのメモのつもりで書いた記事であるが、記録として意味があってよかったと思っている。
作業の途中で国立国会図書館デジタルコレクションの改修があって、地道から高速に乗ったように速度が上がった。
また、けちくさく逡巡していたJapanknowledgePersonalの導入によって、書きつつ、多角的に調べることができてこれもよかった。
また、関西学院大学図書館を一般公開で利用し、大いに役に立った。
別に文書などを交わしたわけではないが、注釈部分を含めてテキストは和歌山県立近代美術館に無償提供したい。むろん、わたし自身は改訂作業を続けるつもりである。
もう本にできる条件は整っている。
井上迅氏が編者であり、注釈を担当した『ためさるる日 井上正子日記』(2023年、法蔵館)が出たときは、田中恭吉日記もこんな本になるといいなあ、と思った。分量もほぼ同じくらいだと思う。
2 田中恭吉日記の概要
田中恭吉日記の概要について記しておこう。
①「田中恭吉 日記_1910_M.43」(博文館明治43年当用日記)
1910年初上京、東京美術学校受験、不合格。白馬会原町洋画研究所に入所。洋画研究所に通いながら、和歌山の地縁のある中井家から離れて下宿生活を始め、東京生活になじんでいく。
1910年初上京、東京美術学校受験、不合格。白馬会原町洋画研究所に入所。洋画研究所に通いながら、和歌山の地縁のある中井家から離れて下宿生活を始め、東京生活になじんでいく。
②「田中恭吉 日記_1911_M.44」(春陽堂明治44年当用日記)
1911年、東京美術学校再受験、洋画科から日本画科に志望変更し合格。交友関係も広がり、不安と希望に満ちた美術学校生としての新生活が始まる。文学を読み、音楽に親しみ、美術展や演劇を鑑賞し、新しい文化の風を全身で吸収していく。
③「田中恭吉 日記_1912_M.45=T.1」(春陽堂明治45年当用日記)
1912年、4月、友人香山小鳥の親戚の娘高崎榮子に恋をするが5月に破れる。6月の箇所に田中家系図を書き写す。美術学校の教育に充足できず、悩みは深まる。
④「ノート(日記抜粋、再編集したもの)」(表紙に「NOTE-BOOK.」と印刷された大学ノート)
日記のうち、1912年10月、12月、1912年4、5月、1909年4月の「紫明日記」を再編集して記述したもの。幼年期の回想文(1910年3月作)も含まれる。記述主体の〈私〉とは別の編集する〈私〉が成立し、創作的なモチーフが生まれている。その過程が可視化されている事例として興味深い。また、日記には夢の記述が含まれていて、無意識への関心が深いことが窺われる。回覧雑誌『密室』や『月映』の表現に向かう田中の心的な前史を読み取ることもできる。青年芸術家の内面の葛藤とともに、克明な恋愛の記録も含まれている。
⑤「恭吉記録」(「雑記帳_1913-1914」、博文館明治31年当用日記)
昔の未使用の日記に、1913年、1914年の記録を残している。読みとれない創作ノート的な部分は省略。
「恭吉記録」は、生誕から喀血までを記した自伝メモ。伝記上の重要事項を含む、短いが重要な資料。
⑥「ひこばえ集」(「雑記帳_1913-1914」、博文館明治31年当用日記)
前項に同じく、未使用日記に記された体験をもとにした文章集。病気療養のため和歌山に帰省した 1913年2月頃に書かれたもの。
「その春の頃」は、山本俊一とともに、1912年4月に行った鎌倉、江の島旅行の記録。
「小母さんと猫」は、谷中三崎町の坂田家に下宿していた頃、飼い猫の死について描く。
⑦「原稿用紙(番号なしから26まで)」(「12 25 文華堂別製」あるいは「十二 廿五」と印刷 された青枠の原稿用紙)
1913年10月5日の喀血の直後の池袋での療養生活と、読書の記録。喀血という事態に直面した混乱と苦悩が記される。1913年10月から11月にかけての記録。
⑧「方眼紙(1A から 11B まで)」(方眼紙両面)
1913年10月5日の喀血後、ある程度病状が落ちついた頃の記録。1913年12月21日から1914年1月、帰郷後の5月の記録。父正堅との関係に踏み込んだ記述、竹久夢二宛書簡下書きが含まれる。
日記の空白部分に、時間的に後日の記述が挿入されていたり、創作ノートとして短歌や詩が記されているところがある。
3 田中恭吉日記の魅力
当初翻刻を始めたときは、創作版画誌『月映(つくはえ)』の同人であり、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に表紙画、口絵、挿絵を寄稿した夭折の画家田中恭吉の伝記の重要資料だという認識であった。
注釈を進めるうちに、強くなったのは、それにとどまらないおもしろさをもっているという思いであった。
日記には、明治末から大正初期の、和歌山から上京した美術学校生の日常生活が記録されており、個人の生活史から時代と社会の広がりを展望できる点で貴重な資料である。普通の生活者としての日記という側面からは、時代、社会の生きた感触を復元することができるのだ。
たとえば、金銭出納簿から当時の物価や、絵具など美術材料の価格がわかり、画学生の生活実態を知ることができる。また、田中は東京美術学校の音楽部に入部するが、日常生活でも歌唱する機会を多く持っている。唱歌や歌謡が記録され、散歩する際にも唄っている。明治大正期は青年にとって〈唱歌、歌謡の時代〉であることが浮かび上がってくる。
質素な生活の中でも、演劇、映画を楽しみ、郊外(中野や飛鳥山)の散策も繰り返し試みている。
学生にとっては盆暮れの帰省が一大行事であり、鉄道旅行の様子がよくわかる。車中で隣席になった慶応の学生が『三田文学』を持っており、それがことばをかわすきっかけになっている。
これらの生活史的な感触は、注釈作業をすすめるなかで明確に感じられてきたものである。
原町洋画研究所での「奇抜色」(自然主義的な着彩ではない、表現主義的な奇抜な着彩のこと)の議論が記されているが、大逆事件にそれをなぞらえるところがある。大逆事件の反応としては、貴重な記録ではないだろうか。
年を追うにつれて、失恋や、友の死、自身の病気など苦しい体験が増えてきて、作業するわたしにも苦しさが感染してきて、疲れをおぼえるようになった。
しかし、ごく当然のことながら、普通の生活にはさまざまな陰影や、喜び、悲哀が充ちており、それは人の生の証であるということを、作業の全体から受けとった。
それらが多くの人に伝えられる時が来ることを願っている。
