noteに記事《〈ひとつ眼〉イメージについて:竹久夢二『山へよする』研究⑪》を公開した。
2万字を超えた。分載すべきか迷ったが、まとまりを重視したいので、一括公開することにした。
『山へよする』表紙画の〈ひとつ眼〉イメージがどのような画像のコンテクストから生まれてきたかを考えた。
先行研究が充実しているので、異なった視角の提示がしやすいのは助かる。
フリーメーソンでも知られる「三角形内一眼」のアイコン(下図、アイコンファインダーより)は、キリスト教では、全視の神の眼と三位一体を示している。
後期バロックの寺院の装飾によく使われていることがわかった。
語学が堪能で、資料検索の方法を知っていたら、教会建築史の文献なども見つけられるだろうが、そこまでの力量はないのだ。
まあ、でも素人でもわかることは多いのだ。
ルドンの石版画集との関係で、フロベールの『聖アントワーヌの誘惑』を読んだ。
戯曲体で読みにくいのだが、おもしろかった。砂漠で暮らす聖アントワーヌが、悪魔の幻惑によってさまざまな誘惑的幻を見せられて信仰の放棄をせまられるが、信仰をまもる、という趣向。
ギリシアの神々が衰亡して朽ち果てていくところは妙なリアリティがあった。
山場は、悪魔自ら聖アントワーヌを翼にのせて宇宙の広さを実感させて神などいないだろうと説き伏せるところ。
埴谷雄高の『死霊』を思い出した。
ラストは昇る太陽にキリストの顔があるというものだが、フロベールは宇宙にはてがないというほうに賛成しているのではないかと疑ってしまう。
図書館で筑摩版の全集を借りて、渡辺一夫・平井照敏訳で読んだ。
ルドンの石版画《いづくも輝き燃ゆる瞳孔》は燃える眼球が浮遊するさまを描くが、対応する場面があるか確認したのである。
第七章に2ヶ所、瞳が燃えるという表現が見られるが、それは怪獣の描写に関連している。
ChatGPTフリー版で尋ねたところ、やはり同じ箇所をあげてきた。先に聞いていても、結局裏取りのためにしっかり読むので手数は同じことである。
わたしの解釈はnoteを読んでくださればわかる。
ChatGPTに感謝するのは、フロベールの原文のありかを教えてくれた点である。
原文検索で、あがってきた箇所をすべて確認することができた。
直接明示されないアナログなコンテクストのありかたを想定するのはまだAIにはむずかしいのだろう。
文学に対応したルドンの石版画集の試みは、写実を離れて、象徴に傾く点で時期的に早い。
近代日本では、こうした象徴的対応の詩画がでてくるのはやはり『月に吠える』以降だろうか。
ご一読を!
