エミール・オルリクのこと

2017/10/15 12:57
 『太陽』の増刊「明治大正の文化」(33巻8号、昭和2年6月、博文館)には、菅原教造「版画発達史」という文章が収められており、なかにつぎのような記述がある。墺地利のオルリックは、画家として、舞台装置家として、又独逸の小泉八雲の作品の挿絵画家として知られてゐる。彼は神田和泉町の小柴で技巧を研究して、新錦絵や石版画を描いた。同じく墺地利の画家カペルリーは京橋五郎兵衛町の渡邊で技巧を修得してやはり新錦絵を描いた。中でも黒猫を抱いた待合の芸者を主題としたものに面白いものがある。その他..

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美術絵はがき

2017/02/21 21:25
水都古書展では、絵はがきがたくさん出ていて、少し気を入れて見た。美術絵はがきのところで2葉、購入。◇まず、熊谷守一の《陽》。「第十五回二科会美術展覧会出品」とある。一般的には、《陽が死んだ日》(1928年)という題で知られている。右下部の文字はそうなっている。熊谷守一が肺炎で亡くなった次男の姿を描いたものである。熊谷の絵が想起させるのは、クロード・モネが、妻カミーユが亡くなった際に、死に顔を描いた《死の床のカミーユ》(1879年)である。亡くなった直後の変貌する妻の表情を、白..

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『河鍋暁斎翁伝』

2017/01/11 02:03
書きものの補完資料として、飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』(昭和59年12月、ぺりかん社)を読む。飯島翁は吉田漱の解説によると、成島柳北の配下で、浮世絵研究の開拓者である。もともと稿本で、虚心以外の筆で「按(あんずる)に」という補記がついていたのを、それも取捨して収めてある。 興味を惹かれたのは、画家、画人の伝記では定番と言えるようなエピソードが紹介されていることだ。まず、妻が死んだ時にその顔を描いている。モネが妻カミーユの死に顔を描いたのと同じである。「按に」の補記では、そのふる..

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『邦助画集』研究ノート

2016/09/14 12:38
 橋本邦助(はしもと・ほうすけ)。略歴は、東文研のアーカイブデータベースに『日本美術年鑑』昭和29年版(155頁) の引用が出ている。  第1回文展から5年連続で入選し、1回(明治40年)から3回(明治42年)まで3等賞を受けている。  年鑑記述によると、「欧州に二度外遊している。主観的な表現をさけその外面的描写技術は当時としては非常に秀れた作家であつたが、対象の内部まで入ろうとする力には欠けていた。明治40年第1回文展から続けて3度入賞し、その後も官展に出品を続けていた..

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坂本繁二郎と三木露風

2016/09/09 11:33
 三木露風というと、情調派、つまり、感傷的抒情と先入見で捉えられがちだが、イメージの自立を目指した詩もある。このことは、『近代日本の象徴主義』(2004年、おうふう)の「1−11 内部の自然 三木露風」で書いたことがある。  「情調派」として露風を批判した富永太郎の「秋の悲嘆」の「かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた」という一節に先駆けて、三木露風の「指」という詩には「汝が髪の優しき中にわが指の╱わけ入りゆくはうらがなし」という一節がある。  また、..

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津田青楓『墨荘雑記』

2016/07/11 01:35
 必要があって、芸艸堂から、再刊されていた、津田青楓の『漱石と十弟子』を読み、書きぶりが面白かったので、昨日、S堂でいちばん値がはったが、随筆集『墨荘雑記』を購入した。何やかや、この所、安価のものも含めてたくさん買ったので、下半期は自重することとしよう。  さて、随筆も生活のために書いていたという。この本には写生文が収めてある。1911年の「グルーズの女」。パリのセーブル街で一軒家を借りていた画家重野には、「グルーズの女」がいる。グルーズは『三四郎』に出てくるフランスの..

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